どこから発している言葉か
広告を学んだ人はご存知かもしれませんが、通販の成功をアメリカの新聞広告に習います。庭の広いアメリカ郊外の新聞にはバラの花の種が通販で売られ、とてもよく売れたそうです。その新聞広告における通販を日本に輸入した歴史があります。しかし、メディアを取り巻く状況は変わり、新しい手法も出てきます。SNSなどでみられる「案件」と言われているものは、企業がフォロワー数の多い人気you tuberなどにお願いをしてPRをしてもらう手法のようです。それを見ながら、言葉の本質を思いました。「どこから発している言葉か」ということです。
you tuberは、自分の好きなジャンルの情報(言語/非言語)を発信して、私たちはその番組などを楽しみつつ、その発信者にも好意を抱きます。好きでやっているという波動のようなものが、自然と私たちを惹きつけます。しかし、案件というのは、そのテンションがない場合が多いように私は感じています。構えている場合が多い。売らなきゃ、好かれなきゃ・・・。見ている方は、「あ、案件ね」と思って少し意識が散漫になったりします。
広告を学ぶときに「消費者心理」という科目がありましたが、どうやら私たちは今、消費者の心理を学ぶよりも、自分の心理を振り返ってみることの方が大切なように思います。それは、右肩上がりの経済成長の勢いが止まり、右も左もわからずにただ成長の波に飲まれていた私たちが、少し立ち止まり、周囲の状況を見る気持ちのゆとりができたことと無関係ではないように思います。成長期には無視されたり見落とされていたりした気持ちにも少しずつ光が当たっている時代だと感じています。パラダイムシフトは、こういうところに端を発して起きるのではとさえ思ってしまいます。
情報過多の中で広告の言葉を一定量浴びた私たちは、その感度も高まっているように思います。ですから、情報の発信者が本当に好きでおすすめしたいものなのか、言わされているのか、はたまた競合を陥れようとする悪意が潜んでいるのか、自己顕示欲なのか。言葉の水面下には感情があり、その前には思考があり、その前にはその人や企業の在り方が根っこをおろしています。情報を発信するときは、そこまでを振り返り、点検してみることが必要な時代になったと思っています。つまり、言葉を発することは、生き方を振り返り、整えることと同義になったと言っても過言ではないように思います。